筆者の経験と考え|約6分で読める
中学生の
かなり漠然とした問いだった。生きるために大切なのか。幸せになるために大切なのか。人生で最も優先すべきものを聞いているのか。そこが分からない以上、本当なら答えようがない。
ただ、中学生の僕はそこまで丁寧には言わず、「質問が曖昧だから、本当はもっと具体的に聞いてもらわないと分からない。でも、少なくとも愛よりはお金だと思います」と答えた。
「家族から教わった」が引っかかった
その少し前に、ある女の子が「家族から、愛が一番大切だと教えられてきたので、愛だと思います」と答えていた。
僕はその答えに、妙な違和感を覚えた。愛が大切ではないと思ったわけではない。むしろ気になったのは、「家族からそう教わった」という部分だった。人間にとって一番大切なもの、というほど根本的な問いへの答えが、誰かから教わったものの受け売りでいいのだろうか。
「じゃあ、先生の給料を全部僕にください」
先生は僕に理由を尋ね、自分はお金より愛の方が大切だと思う、と話した。そこで僕は先生にこう言った。
「じゃあ、先生の今日からの給料を全部僕にください」
その給料を僕が代わりに受け取る。それでも先生が毎日学校に来て、このクラスのために授業を続けるのであれば、僕も愛の方がお金より大切だと認めます、と。
先生には子どももいた。だからさらに、こう続けた。「先生、お子さんいますよね。お金がなければ、その大切な子どもを養えませんよね。それでもこのクラスへの愛の方が大切だから、給料はいらないと言って授業を続けるのであれば、確かに愛の方が大事なんでしょうね」
先生はかなり怒った。今考えれば、中学生らしく、言い方も相当生意気だったと思う。
ただ、僕が本当に言いたかったのは、「金こそすべてだ」ということではなかった。自分では現実に選ばないものを、なぜ「一番大切です」と簡単に言えるのか。そこが知りたかった。綺麗な言葉と実際の選択が食い違っているなら、僕にはその言葉の方が嘘に見えた。
そして、たぶんこの感覚はその後もずっと変わっていない。
高校の人文字が、なぜか不気味に見えた
高校に入ると、学校行事で「人文字」を作るような機会があった。大勢の生徒が決められた場所に並び、上から見たときに一つの文字や図形になる。学校行事としては珍しくもない。
多くの同級生は楽しそうに参加していた。達成感もあったのだと思う。みんなで一つのものを作る。仲間と協力する。高校生活の思い出になる。そういう価値観も理解はできる。
でも、僕にはなぜか不気味に見えた。一人ひとりが何を考えているかは関係ない。決められた位置に立ち、決められた動きをして、上から見たときに美しい形になる。個人は一人の人間ではなく、巨大な図柄を作る一つの点になる。
しかも不思議だったのは、そういう場面ほど、「みんなでやるからいい」「一生懸命やることに意味がある」「青春だから」という言葉が強くなることだった。なぜそれをする必要があるのかを問うこと自体が、場の空気を壊す行為のように扱われる。
高校生のときの僕は、それをうまく言葉にはできなかった。ただ、周りが嬉々としてその空気に入っていくのを見ながら、「なんでそんなに簡単に、このルールの中に入れるんだろう」と思っていた。
後になって考えると、中学の道徳の授業で感じた違和感と、ほとんど同じだった。
自分で考えて、 選んだのか
「愛が大切です」。「みんなで一つになることは素晴らしいです」。言葉だけを見れば、どちらも間違ってはいない。僕がずっと気になっていたのは、その言葉を本当に自分で考えて選んだのか、ということだった。
親からそう教わったから。先生がそう言うから。学校がそういう行事をするから。周りのみんなが楽しんでいるから。社会ではそれが正しいことになっているから。それだけの理由で、自分の価値観まで決めてしまっていいのか。
僕はたぶん、昔から「ルール」が嫌いだったわけではない。集団行動そのものが嫌いだったわけでもない。もっと正確に言えば、理由を考えないまま従うことに、強い抵抗があった。
言っていることと、選んでいること
もう一つある。人間は、自分が信じている価値観と、実際の行動が一致していないことが驚くほど多い。
愛が一番大切だと言いながら、給料がなくなれば仕事には来ない。個性が大切だと言いながら、就職活動では同じようなスーツを着て、同じような受け答えをする。理不尽な校則が嫌だったと言いながら、自分が上の立場になると、後輩に同じことを求める。「自分らしく生きろ」と言いながら、普通から外れた人を見ると不安になる。
僕には、この矛盾の方がずっと面白かった。そして不思議だった。人は、本当に信じていることよりも、信じていることにしておいた方が社会的に都合のいい価値観を口にすることがある。
おそらく社会は、ある程度そういう建前で回っている。全員が毎回あらゆる前提を疑っていたら、集団は効率的には動かない。だから共通の物語やルールや道徳が必要になる。それ自体を否定するつもりはない。
ただ、僕はそこに一つだけ条件を付けたくなる。それが社会を動かすための便宜上のルールなのか、本当に誰にとっても正しいことなのかは、分けて考えた方がいい。
ここを混ぜると、人は簡単に考えるのをやめる。
「みんながそうしている」が、「それが正しい」に変わる。
「先生がそう言った」が、「それが真実だ」に変わる。
「昔からそうしている」が、「これからもそうすべきだ」に変わる。
僕がずっと嫌だったのは、たぶんこの変換だ。
立ち止まる側にいた
この感覚は、大人になってもかなり残っている。就職活動にも、同じものを感じた。会社ごとに違う人を求めているはずなのに、学生は似たような「強み」を語り、似たような成功体験を話す。企業側もそれをある程度分かったうえで評価している。学生側も、演じていることをどこかで分かっている。それでも、仕組みとしては回っていく。
高校のとき、人文字の中に嬉々として入っていた人たちの中には、その後、名のある企業に進んだ人も多かった。それを見て、僕は少し納得した。あのとき僕が違和感を覚えていたものは、社会に適応するうえでは、むしろ能力だったのかもしれない。その場が求めている役割を察し、うまく演じる。共同体の物語に入り込み、そのルールの中で成果を出す。それは社会では強い。
逆に、「そもそもこのルールは何のためにあるんですか」と毎回立ち止まる人間は、組織にとって扱いにくい。僕はたぶん、昔からそちら側だった。
だからといって、自分の方が正しいとは思わない。むしろ、社会生活だけを考えれば、考えすぎない方が楽な場面はかなり多い。
でも僕には、どうしても気になってしまう。それ、本当にあなたの考えですか。それとも、誰かから渡された答えですか。言っていることと、実際に選んでいることは一致していますか。そのルールは何のためにあって、その目的がなくなった後も、続ける必要がありますか。
見ていたのは「正しさが作られる過程」
中学の道徳の授業でも、高校の人文字でも、就職活動でも、僕が見ていたものは、たぶんずっと同じだった。「正しさ」そのものではなく、「正しさが作られる過程」だった。
人はどうやって「これは正しい」と思うようになるのか。誰がその答えを決めたのか。なぜ疑わなくなるのか。そして、自分がその仕組みで得をする側になったときにも、同じことを言い続けられるのか。
僕の考え方の根っこには、たぶんずっとこの疑問がある。
だから僕は、綺麗な答えを見ると少し疑う。多数派の意見を見ると、その理由を知りたくなる。何かを「常識」と言われると、その常識はどこまで本当に正しいのか、つい半分に割って、中を見たくなる。
Instr Signal が「その常識、半分だけ正しい。」を掲げているのも、この疑問から来ている。

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