筆者の経験と考え|約11分で読める
高校生の
僕の通っていた高校には、難しい数学を解き、大量の知識を覚え、模試で高い点を取り、有名大学へ進んでいく人がたくさんいた。
そういう人たちは当然、物事を一段引いて見る能力も高いのだと思っていた。
理不尽なものを見れば、「これはおかしい」と気づく。
そして、自分がそれを変えられる立場になったら変える。
それが、僕の思っていた「頭がいい人」だった。
でも高校生活の中で、どうもそうではないらしいと思う出来事があった。
下級生のころ嫌っていたものに、自分がなる
特に印象に残っているのが、体育祭だった。
僕の高校には、人文字のような大人数で行う集団演技があった。
決められた場所に座り、決められたタイミングでパネルを掲げ、何百人もの人間で一つの絵を作る。
僕は、この演技そのものが嫌だったわけではない。
馴染めなかったのは、その周辺に漂っていた空気だった。
上級生だから偉い。
下級生だから従う。
そんな上下関係が、ごく自然なものとして存在していた。
下級生のころ、それに不満を持っていたのは僕だけではなかった。
「先輩ってだけで、なんであんなに偉そうなんだ」
そんな話は普通に出ていた。
だから僕は、自分たちが上級生になったら、当然やめるのだと思っていた。
自分がされて嫌だったことを、わざわざ後輩に繰り返す理由が分からなかったからだ。
でも、実際にはそうならなかった。
自分たちが上級生になると、それまで不満を言っていた人たちも、いつの間にか後輩へ指示を出す側に回っていた。
しかも僕には、「仕方なく上級生の役割をこなしている」というより、その立場を楽しんでいるように見える人も少なくなかった。
去年まで嫌っていたはずのものを、自分が使えるようになった途端に受け入れる。
そして僕が一番引っかかったのは、そういう人たちの中にも、勉強が非常によくできる人が普通にいたことだった。
頭がいいはずなのに。
自分が去年まで何を嫌がっていたのかくらい、覚えているはずなのに。
なぜ同じことを繰り返すのだろう。
このころから僕の中で、「勉強ができること」と「頭がいいこと」の間に、少しずつ隙間が生まれ始めた。

変わったのは、制度ではなく自分の立場だった
今になって考えれば、構造はそれほど複雑ではない。
変わったのは制度ではない。
その人の立場だった。
下級生のとき、上下関係は自分を縛る。
だから、
「先輩というだけで偉そうにするのはおかしい」
と思う。
ところが上級生になると、同じ仕組みが今度は自分に力を与えてくれる。
後輩は指示を聞く。
自分たちが中心になる。
昨日まで自分を拘束していた仕組みが、今日から自分にとって便利な仕組みに変わる。
すると、それを説明する言葉まで変わっていく。
「伝統だから」
「自分たちもやってきたから」
「後輩のためでもある」
「集団をまとめるには必要だ」
もちろん、立場が変わったことで初めて分かる事情はある。
責任を持つ側になって、新しい情報を得た結果、昔とは違う結論に至ることもある。
考えが変わること自体は、何もおかしくない。
僕が気になるのはそこではない。
新しい事実を知ったわけでもないのに、自分の損得だけが逆転した瞬間、理屈まで都合よく逆転してしまうことだ。
そのとき、僕は考える。
頭がいいとは、自分の置かれた状況に合わせて最も都合のいい理屈を作れることなのだろうか。
それとも、立場が変わったあとにも、自分の考えを以前と同じ基準で点検できることなのだろうか。
教師はなぜ、 それを止めなかったのか
もう一つ、後になって気になったことがある。
教師は、なぜこの構造を止めなかったのだろう。
下級生が理不尽さを感じ、数年後にはその下級生が上級生として同じことを繰り返す。
教師は、それを毎年見ていたはずだ。
一瞬、「教師も同じ穴のムジナなのではないか」と思う。
ただ、今はもう少し構造的に考えている。
教師自身も、その制度を外から眺めているわけではない。
学校という仕組みを運営する側にいる。
生徒から見れば、
「上級生が後輩に偉そうにしている」
ように見えるものでも、運営側から見れば、
「上級生がリーダーシップを発揮している」
「生徒主体で行事を運営している」
「学年間のつながりを作っている」
と説明できる。
同じ現象でも、立場が変われば名前が変わる。
下級生にとっての「理不尽」が、運営する側では「秩序」「伝統」「教育」に置き換わる。
もちろん、本当にそうした機能がある場合もあるだろう。
だから難しい。
物事を多面的に見ているのか。
それとも、自分にとって都合のいい言葉に置き換えているだけなのか。
外から見ると、この二つはかなり似ている。
さらに、教師一人が文化を変えようとしても、他の教師や上級生、卒業生、保護者などから反発を受けるかもしれない。
一方、何もしなくても学校は回る。
だったら、わざわざ揉めるより、
「昔からこうだから」
で済ませる方が圧倒的に楽だ。
理不尽な制度が残るために、熱烈な支持者は必ずしも必要ない。
少し疑問を持ちながらも、変えるほどではないと思う人が十分にいれば、それだけで制度は残り続ける。
そして、ここにはもう一つ面白い矛盾がある。
もし教師が本気で、
「自分が得をする立場になったときほど、自分の考えを疑いなさい」
と生徒に教えたらどうなるだろう。
その思考は、当然教師自身にも向けられる。
「先生、その校則は本当に必要なんですか」
「昔からやっているというだけで、続ける理由になるんですか」
「それは生徒のためですか。それとも管理する側にとって便利だからですか」
権威を疑う思考を本気で教えれば、その思考はいずれ自分の権威にも向けられる。
これは組織にとって、かなり扱いにくい。
学校では「考える力」が大事だと言われる。
数学でも国語でも社会でも、考えなさいと言われる。
ただ、
「今あなたが所属している学校そのものを疑ってみなさい」
とは、あまり言われない。
考えることは推奨される。
しかし、何を考えていいのかには暗黙の境界がある。
その境界を越えて、制度や権威そのものを疑い始めると、途端に「扱いにくい人」になることがある。
だとすれば、学校で評価される「考える力」と、僕が考えている「知性」は、完全には同じではないのかもしれない。
与えられた問題に対して正しい答えを出す力。
それとは別に、
そもそも、その問題設定自体は正しいのか。
誰かにとって都合よく作られていないか。
そう問い直す力もある。
僕が興味を持ったのは、後者だった。
就活で、同じ違和感に再会した
この違和感は、高校を卒業してからも消えなかった。
特に強く感じたのが就職活動だった。
僕は就活がかなり苦手だった。
一方で、大学受験は嫌いではなかった。
問題がある。
答えがある。
点数が出る。
合格最低点を超えれば受かる。
非常に分かりやすい。
就活は違った。
「なぜ弊社なのですか」
「学生時代に力を入れたことは何ですか」
「あなたの強みを教えてください」
学生側だって、本音を全部そのまま話しているわけではない。
企業側も当然、それくらい分かっている。
にもかかわらず、双方が真顔でそのゲームを続ける。
僕は面接を受けながら何度も思った。
面接官は、なんで笑わないんだろう。
もちろん今なら、企業が限られた時間で多数の人間を選ぶ以上、ある程度形式化された面接が必要なのは分かる。
採用する側にも事情がある。
それでも、当時の僕にはかなり茶番めいて見えた。
そして僕の個人的な経験では、高校時代にあの体育祭の仕組みにすっと入っていけた人たちの方が、就職活動にも自然に適応しているように見えた。
これはあくまで僕の周囲で見た範囲の話で、一般化するつもりはない。
ただ、僕の中では体育祭と就活がそこで初めて一本につながった。
社会では、仕組みそのものを疑える人よりも、その仕組みを素早く理解して、その中で求められる役割を適切に演じられる人の方が評価される場面があるのではないか。
勉強のできる人や頭の回転の速い人も、必ずしもそのゲームを疑うわけではない。
むしろ、
相手が何を求めているかを読み、
評価される答えを予測し、
最適な振る舞いを選ぶ。
そういう能力に長けている人もいる。
それは間違いなく、一つの能力だと思う。
社会で生きていくうえでは、むしろかなり強い能力だ。
でも僕が高校生のころに漠然と思っていた「頭がいい人」は、それとは少し違っていた。
僕が期待していたのは、
正解を早く見つけられる人というより、
みんなが正解だと思っているものを、一度疑える人だった。
「頭がいい」という言葉に、いろいろな能力を詰め込みすぎていた
考えてみれば、僕は昔、「頭がいい」という一つの言葉に、いろいろな能力をまとめて入れていた。
試験問題を解く能力。
記憶する能力。
論理的に話す能力。
状況を読む能力。
組織の中で自分に求められる役割を理解する能力。
そして、自分自身の考えを疑う能力。
でも、これらは同じものではない。
高校や就活を通して僕が感じたのは、
認知能力が高いことと、自分の認知を疑えることは別の能力なのではないか
ということだった。
他人の矛盾なら簡単に見つけられる。
制度の欠陥も論理的に説明できる。
ところが、自分がその制度から利益を受ける側へ回った瞬間、それまで見えていたはずの矛盾が急に見えなくなる。
あるいは、分析能力そのものは働いている。
ただ、その能力が今度は自分に都合のいい結論を正当化するために使われる。
だから、単純に「頭が悪い」とは言えない。
むしろ逆かもしれない。
頭の回転が速ければ速いほど、自分の立場を正当化する精巧な理屈を作ることだってできる。
頭がいい人ほど、正当化もうまい
「俺が得をするから、この制度を残したい」
と、そのまま言う人は少ない。
代わりに、
「組織を運営するために必要だ」
「教育上意味がある」
「責任を負う立場になれば分かる」
「現実はそんなに単純ではない」
といった説明が出てくる。
そして厄介なのは、それが完全な嘘とも限らないことだ。
組織には秩序が必要だろう。
責任を持つ側にしか見えない事情もある。
古い制度にも、何らかの機能が残っていることはある。
だからこそ、自分でも判別しにくい。
本当に新しい情報を得たから考えが変わったのか。
それとも、自分が得をする側に変わったから、考えを変える理由を後から作ったのか。
人間はおそらく、その二つを完全には切り分けられない。
だったら、必要なのは「絶対に自分を正当化するな」という無理な要求ではないと思う。
もっと単純なことだ。
自分の利益と自分の主張がきれいに一致したときに、一度だけ疑ってみる。
「この理屈は、自分が逆の立場だったとしても正しいと思えただろうか」
と。
自分自身を、自分の論理の例外にしない
今の僕が「知性」という言葉に一番含めたいのは、これだ。
自分自身を、自分の論理の例外にしないこと。
他人が権力を持っているときだけ、権力の危険性を語るのではない。
自分が権力を持ったときにも、同じ基準を当てる。
自分が損をしているときだけ、不公平を批判するのではない。
自分が得をしているときにも、その仕組みを同じ目で見る。
これは意外と難しい。
人は、自分が不利益を受けているときには不公平によく気づく。
痛いからだ。
腹が立つからだ。
一方、自分が得をしている不公平には気づきにくい。
痛くない。
むしろ心地いい。
だから僕は、人の知性が一番試されるのは、負けているときよりも、むしろ勝っているときなのではないかと思う。
下級生のころに、
「上級生は横暴だ」
と言うのはそれほど難しくない。
難しいのは、自分が上級生になったあとだ。
若手社員のころに、
「この会議、意味がないですよね」
と言うのも簡単だ。
難しいのは、自分が管理職になったとき、本当にその会議を一つ減らせるかだ。
自分が理不尽な目に遭った経験を、
「俺もやられたんだから」
と次の世代へ渡すのか。
それとも、
「俺が嫌だったから、ここで終わらせよう」
と言えるのか。
僕は、そこに知性の一つの形が現れるように思う。
僕が「頭がいい」と呼びたい人
高校生のころ、僕は頭のいい人とは、正しい答えを出せる人だと思っていた。
今は少し違う。
難しい問題を解けること。
大量の情報を処理できること。
仕事を速くこなせること。
相手の意図を読み、組織の中でうまく立ち回れること。
どれも間違いなく能力だと思う。
でも、それらと「知性」は完全に同じではない。
僕が今、より重要だと思っているのは、
自分が出した答えを、自分自身にも適用できること。
自分が強い側へ回ったあとにも、弱い側にいたころと同じ基準を使えること。
そして何より、自分にとって都合のいい結論が出たときほど、
「本当にそうか」
と一度だけ問い直せることだ。
頭がいいとは、いつでも正しい答えを知っていることではない。
人間である以上、間違える。
立場にも影響される。
自分を正当化することもある。
だからこそ、自分にとってあまりにも都合のいい答えが出たときに、その答えまで疑いの対象にできるかどうか。
高校生のころの僕は、「頭がいい人」とは正しい答えを出せる人だと思っていた。
今の僕は、少し違う。
自分に都合のいい答えを、正しい答えだと思い込む前に疑える人。
少なくとも僕は、そんな人を「頭がいい」と呼びたい。

について


