筆者の経験と考え|約10分で読める

Instr Signal では、ニュースの記事とは別に、運営している僕が、自分の経験と考えをコラムに書いてきた。中学の道徳の授業、高校の体育祭、就職活動、民主主義、AI。題材はばらばらに見えるが、並べてみると、どれでも同じことを確かめていた。

表向きの理由と、人を実際に動かしているものは、同じなのか。

先に答えを書いておく。世の中で「正しい」とされていることの多くは、完全な間違いではない。生まれた理由があり、役に立っている所もある。ただ、表向きの説明だけを見ていると、残りの半分を見落とす。誰が決めたのか。誰の役に立っているのか。今も要るのか。そこまで確かめて、要るならもう一度使う。Instr Signal の標語「その常識、半分だけ正しい。」は、僕のこの癖に付けた名前だ。

この確かめ方は、他人にだけ向けているわけではない。社会が僕に語る物語(表向きの説明や筋書き)も、他人が僕に語る物語も、僕が自分に言い聞かせている物語も、同じように確かめてきた。

何を言うかより、何を選ぶか

中学の道徳の授業で、先生が「人間にとって、一番大切なものは何だと思いますか」と聞いた。ある女の子が「家族から、愛が一番大切だと教えられてきたので、愛だと思います」と答えた。僕は「少なくとも愛よりはお金だと思います」と答えた。

先生は、自分はお金より愛の方が大切だと思う、と話した。そこで僕は「じゃあ、先生の今日からの給料を全部僕にください」と言った。先生はかなり怒った。言い方も相当生意気だったと、今は思う。

僕は、愛なんて無いと言いたかったわけではない。先生も、実際の暮らしではお金が要るという前提で動いている。それなのに、教室では「愛の方が大切」を正解のように教えている。なぜそうなるのか、そこが知りたかった。

何を信じていると言うかより、何かを失う場面で何を守るか。言葉より、その人が実際に選ぶものを見る。これが、僕の考え方の出発点になった。

決まりは要る。気になるのは、その理由の付け方

あの授業は、日本の学校で道徳が担っている働きを考えるきっかけにもなった。特定の神を教えるわけではないが、何が善くて、どう生きるべきかをみんなで共有する、という働きは、宗教の授業に近いと僕は思っている。

中身の多くは、社会を回すのに役に立つ。赤信号で止まる、人の物を取らない、約束を守る。こうした決まりが無ければ、大勢では暮らせない。

僕が気になるのは、決まりがあることではなく、その理由の付け方だ。「みんなが好き勝手すると、ここにいる私たち自身が困るので、決まりを守りましょう」と言われれば分かる。それが「人としてこれが正しい」に言い換えられると、「本当に?」と思う。

「全部あなたのため」「会社だから」で、決めた人を消さない

母は「あなたのために」と本気で言う人だった。嘘をついていたとは思わない。本当に愛情だったのだと思う。

ただ、僕には一つ引っかかった。助けたいと思ったのも、良い方向へ導きたいと思ったのも、最後は母自身の気持ちではないか。それが悪いと言いたいのではない。誰かを幸せにしたいという自分の気持ちに従って、その人を幸せにする。それで何も悪くない。母とは、この話は今も平行線のままだ。それは仕方がないと、今は思っている。

これは母に限った話ではない。困るのは、自分の気持ちを消して「全部あなたのため」と説明し、後から「これだけしてあげた」と持ち出すときだ。そうなると、選んだのが自分だという事実が消える。僕なら、「僕がそうしたかったから、そうした」でいいと思う。

「会社だから」「伝統だから」「みんながやっているから」「社会のためだから」も同じだ。そう言った途端に、決めた人の姿が見えなくなる。こういう言葉を聞くと、僕は「それは、誰がそうしたいんですか」と聞きたくなる。

立場を入れ替えても、同じことを言えるか

高校の体育祭には、大勢で一つの絵を作る、人文字のような集団演技があった。上級生だから偉い、下級生だから従う、という空気もあった。下級生のころ、それを嫌がっていたのは僕だけではなかった。

だから、自分たちが上級生になればやめるのだろうと思っていた。そうはならなかった。文句を言っていた人まで、後輩に指示を出す側に回った。もちろん、上級生になって初めて見えた事情もあるのだと思う。考えが変わること自体は当然だ。

理不尽は、一部の悪い上級生が作っているのではなかった。嫌な思いをした学年が、次の年には同じことをする側に回る。その入れ替わりで、同じ空気が毎年続いていく。

だから僕は、ある理屈を信じるかどうかを、立場を入れ替えても言えるかで見ている。下級生のときに「おかしい」と言うのは簡単だ。自分が得をする側に回ったときにも、同じことを言えるか。気になるのは、新しい事情を知ったからではなく、損得が逆になっただけで、理屈まで逆になることだ。

勉強ができる人なら、「昔からそうだから」という理屈のおかしさに気づくと思っていた。けれど、気づくことと、そこから降りることは別だった。上下関係でも就職活動でも、おかしいと分かったうえで、その中で勝った方が得だから参加する人もいる。それは頭が悪いからではなく、合理的な判断なのかもしれない。分かった後に何を選ぶかは、頭の良し悪しではなく、何を大事にするかの問題だ。

人が作ったものだと、頭の片隅に置いて使う

就職活動では、学生も会社も、面接がある程度の演技だと分かっている。僕が引っかかったのは、お互いにそれを分かっているのに、「これが本当の自分だ」ということにして続けることだった。

それでも、社会の形式を全部なくしたいわけではない。短い面接で人を見抜くことはできないから、形を決める。挨拶も、敬語も、肩書も、法律も、お金も、人間が決めたものだ。人間が決めたものだから無意味なのではなく、みんなで信じることで、実際に人を動かす力を持つ。

気になるのは、人間が決めたものを、最初からそうなっていた決まりのように扱い、自分が選んでいることまで忘れてしまうことだ。「社会人とはこういうもの」「親ならこうすべき」が、いつの間にか人より上に立つ。

仕組みに名前をつけておく

物語だと知っておく、という考えは、もう少し広げられる。

人の判断のくせには、名前が付いているものが多い。多くの人が選んでいるものを良いと思いやすい「バンドワゴン効果」、肩書のある人の言うことを信じやすい「権威バイアス」、悪い知らせを「大したことはない」と受け流しやすい「正常性バイアス」、もう払ったお金や時間が惜しくてやめられなくなる「サンクコスト効果」。

僕は、こうした名前を知ること自体に意味があると思っている。行列のできている店を見ると、「みんなが良いと言っているのだから、良いのだろう」と思う。バンドワゴン効果という名前を知っていれば、そこで「いま僕は、味より『みんなが並んでいる』ことに動かされていないか」と、もう一段考えられる。

名前を知っても、くせが消えるわけではない。行列を見れば、やはり気になる。変わるのは、そのくせが自分に効いているかもしれないと気づけるようになることだ。名前は、自分の考えを一段上から見るための道具になる。

社会の決まりや序列、就職活動の作法も同じだと思う。動かせない現実だと思っていると、その中でしか考えられない。人が一緒に支えている物語だと知っていれば、その中で暮らしながら、少し引いて眺められる。外へ完全に出られるわけではない。それでも、仕組みと自分を同じものだと思わずに済む。

人は、仕組みから完全には逃れられない。だから僕は、せめてその仕組みに名前をつけておきたい。

ニュースも言葉も、中身を一語に詰め込む

ニュースは、出来事を短い言葉に詰め込んで届ける。「負担軽減」「過去最高」のような一語の中に、誰に何が起きるのかが畳み込まれている。Instr Signal でやりたいのは、その一語を、全部ではなく、読む人が判断するのに要る所までほどいて伝えることだ。

僕がこれにこだわるのは、一つの言葉にいろいろなものが詰め込まれるのが気になるからだ。「頭がいい」は、記憶力なのか、筋道を立てる力なのか、仕組みに慣れる力なのか。「愛」は、気持ちなのか、行動なのか、責任なのか。

音楽を作るときにも、同じことを考える。感じたことは、本当は境目の無いなめらかなものだ。言葉にした途端、それは「寂しい」のような、区切りのはっきりした一語になる。夜に一人でいる寂しさも、人混みの中の寂しさも、同じ一語になる。言葉にすることは、伝えることであると同時に、こぼすことでもある。音楽は、そのこぼれた部分を、音色や間で運べることがある。受け取った人がそれを自分なりに受け止め、そこからまた新しい何かが生まれる。

頭の中のもやもやを、きれいな文章にする。その作業を、いまは AI がかなりこなす。だから、文章にする力で得られていた有利さは、はっきり小さくなる。残るのは、言葉になる前の所だと思う。何に引っかかるか。何を問うか。AI の答えのどこで「違う」と言うか。最後に何を選ぶか。

民主主義も、普通の人のままで回る仕組みに

民主主義についても、「国民が賢くなれば正しい政治になる」とは思わない。人は感情に左右されるし、複雑な話を全部は読まない。かといって「分かる人だけに決めさせる」なら、誰がその人を選ぶのかという問題が出る。

だから大事なのは、全員を賢くすることより、不完全な人間が動かしても壊れにくい仕組みだと思う。体育祭の上級生と同じだ。善い上級生を育てるより、上級生が少しくらい愚かでも、力を振るいにくい形にした方が強い。人は立場が変われば考えも変わる。それを欠陥と見るより、人はそういう生き物だという前提に立った方がいい。

自分も例外にしない

この確かめ方は、自分にも向けている。苦しかった時期について、僕は「あの経験があったから、今の自分がある」と言うことがある。でもそれは、自己正当化だと思っている。別の道を選んでいたら、もっと楽に生きられた可能性もある。あの苦しみが必要だったと証明する方法は無い。

それでも、僕はそう思うことにしている。全部無駄だったと考えて生きるより、意味があったと考えた方が、前に進めるからだ。偶然を必然に変える。正確に言えば、必然を後から作る。ただし、それが自分で作った物語だということは忘れない。

そして、この物語は自分のためだけに使う。「自分が苦労したから、あなたも苦労しろ」と人に言う根拠にはしない。それをした途端、僕は体育祭の上級生と同じことをすることになる。

半分だけ正しい

最後に、自分に課している線が一つある。ここに書いた考えを、誰にとっても正しい答えにしないことだ。「仕組みを見る人の方が偉い」と言い出せば、僕が疑ってきたものと同じになる。僕に言えるのは、「僕にはこう見える」「僕はこう生きたい」までだ。

先生の「愛の方が大切」も、母の「あなたのために」も、就職活動も、道徳も、完全な間違いではない。どれにも生まれた理由があり、役に立っている所がある。だから捨てるのではなく、一度ほどいて確かめ、要ると思えばもう一度使う。

社会の決まりも、自分の過去の意味づけも、人が作った物語だ。人はそれなしには生きられないから、信じて使えばいい。ただ、頭の片隅に「これは物語にすぎない」という認識を置いておく。そうしておけば、その物語が合わなくなったとき、変えることも、降りることも、自分で選べる。それが大事なんじゃないかと、僕は思う。

Instr Signal の記事で、広く持たれている受け取り方があれば、それを記事の頭に置き、正しい半分を認めてから、どこから違うかを書いているのも、そのためだ。